分煙社会から無煙社会へ
一般社団法人 タバコ問題情報センター
トップ
センター紹介
主な活動
タバコ問題情報
>日本の
 禁煙問題30年史

コラム
リンク
お問い合わせ
日本の禁煙問題30年史


喫煙大国日本にも変化はある

他の先進国と比べた場合、日本の禁煙対策は遅れていると言わざるを得ません。

しかし、最近の健康増進法の施行や、タバコ規制枠組条約の批准など、日本も少しずつ変わり始めています。

ここでは、過去約30年間の日本における、禁煙問題を時系列で取り上げます。

1978年2月 「嫌煙権確立をめざす人びとの会」発足

1978年2月、有志が集まり、「嫌煙権確立をめざす人びとの会」が発足しました。非喫煙者は「きれいな空気を吸う権利」があり、この権利を求める「嫌煙権運動」も提唱しました。このことは当時のマスコミでも大きく報道され、「嫌煙権」という言葉が市民権を得て行きました。

その2ヵ月後の1978年4月には、全国のタバコ問題に取り組む諸団体が集まり、「全国禁煙・嫌煙運動連絡協議会」(白石尚会長)が結成され、日本の禁煙問題運動の幕開けとなりました。


1980年4月 「嫌煙権訴訟」提訴

1980年4月7日、「全ての列車の半数以上を禁煙に」と15人の原告が国鉄・国・専売公社を相手どって、東京地裁に提訴し、通称「嫌煙権訴訟」が始まりました。

約7年に渡った審議の結果、1987年3月、東京地裁は嫌煙権を認めつつも、「列車の受動喫煙は受忍限度内」との判断をし、原告の訴えを棄却しました。

しかし、裁判当初はこだま号に1両しかなかった禁煙車が、判決がでた頃には約3割まで上昇しました。これを受け、原告側は実質勝訴と判断し、控訴を行いませんでした。

2005年の現在では、東海道新幹線の約7割が禁煙車になり、一部の新幹線・特急が全席禁煙になっています。禁煙車の要望の多さ、タバコの有害性が世の中にに認められつつある一例だと考えます。



当時の原告側ビラ
(1980)
1983年7月 「第5回喫煙と健康世界会議」参加

1983年7月、カナダのウィニペグ市で「第5回喫煙と健康世界会議」が開催されました。

日本から平山雄氏・伊佐山芳郎氏・渡辺文学(当センター代表)など、十数名が「自費」にて参加しました。

タバコ問題対策で先行する各国から、多くの資料・情報を入手し、今後の日本の禁煙運動に大いに役立つ結果となりました。



会議の様子
(1983)
1984年4月 「全国一斉禁煙・嫌煙行動」開催

1984年4月、「全国一斉禁煙・嫌煙行動」と題するイベント開催しました。1988年からWHO(世界保健機関)も「世界禁煙デ−」の実施に踏み切り、1989年以降、5月31日を「世界禁煙デ−」として、世界各国に幅広いイベントの実施を呼び掛けるようになりました。

タバコ問題では遅れている日本ですが、世界で初めて禁煙をテーマにした大きなイベントを行ったのは、実は日本なのです。このイベントの成功をきっかけに関係者がWHOへ働きかけ、世界的なイベントが開催されるようになりました。



イベントの様子
(1984)
1985年4月 「日本タバコ産業(株)」誕生

1985年4月、日本専売公社が民営化され「日本タバコ産業株式会社(JT)」が誕生しました。しかし、株式は大蔵大臣名義で100%政府が保有し、社長も長岡寛氏(大蔵事務次官)で、まさに「国策企業」そのものでした。

世界の全ての国で、政府がタバコ会社の株を持ち、財務官僚が天下りをして密接な関係を有しているケースはありません。この事がタバコ問題に対する国の姿勢を消極化させています。

2005年の現在でも、政府はJTの発行済み株式の50.02%、つまり過半数を保有している状況で、国がタバコ産業を保護する動きは続いています。


1986年4月 23区内初の「分煙庁舎」実現

1986年4月、東京23区内で初の「分煙」庁舎が足立区で実現しました。足立区議員、飯田豊彦氏の努力が実りました。

なお、日本で初めての「分煙」庁舎は、1966年4月、鈴木平三郎市長(医師)の英断で東京都三鷹市が実現させました。また、東京都庁は新都庁舎建設時(1989年)から、分煙を意識した設計となっています。

2005年の現在では、ようやく公共の場は禁煙・分煙が当たり前になってきましたが、いまだに十分な分煙対策が取られていない建物が多いのも事実です。


1987年10月 厚生省「タバコ白書」刊行

1987年10月、厚生省が『喫煙と健康問題に関する報告書』(通称『タバコ白書』)を刊行しました。これは、国が初めて喫煙・受動喫煙の有害性について、国内外の文献を元に報告を行ったものでした。

その後、1993年5月に第2版が、2002年6月に新版が発行され、喫煙・受動喫煙の害について、最新の科学的知見が報告されています。

この報告書の発行で、国は「タバコの害を認知している」と判断できます。にもかかわらず、タバコに対する規制を強化しないのは、明らかに国民に対する裏切りです。



『喫煙と健康』
(1987)
1987年11月 「第6回喫煙と健康世界会議」開催

1987年11月「第6回喫煙と健康世界会議」が東京・経団連会館で開催されました。

11月9日〜12日の4日間、56ヵ国・700人が参加して開催された当会議は、最終日に「すべての国は広告、スポンサ−などによるタバコ販売行為を禁止すべきである」と発表しました。まさに日本名指しの勧告がなされた、と言えます。



会議の様子
(1987)
1988年4月 「88・66運動」提唱

1988年は、未成年者喫煙禁止法が制定されてから88周年、未成年者飲酒禁止法が制定されてから66周年にあたるため、「88・66運動」を提唱しました。

1988年4月にはキャンペーンコンサートが開催(青少年育成国民会議等との共催)され、チャック・ウィルソン氏もポスターでアピールしてくださいました。

2005年の現在は、未成年者喫煙禁止法が制定されてから105周年ということになります。この105年の間に科学は進歩し、未成年だけではなく、すべての人間に対して、タバコは危険なものとわかったはずです。にもかかわらず、タバコを生産し、自動販売機で未成年も買いやすい環境を野放しにしているのは大きな問題です。


1988年1月 地下鉄の「終日全面禁煙」実現

1988年1月1日、営団地下鉄(現 メトロ)が終日禁煙を実施し、日本の9都市の全ての地下鉄が全面禁煙となりました。

これまで長年「禁煙タイム(午前7時〜9時/午後5時〜7時)」が採用されてきましたが、ロンドンの地下鉄火災が大きな影響を与え、ついに「終日全面禁煙」が実現しました。

地下鉄のような閉ざされた空間で、禁煙タイム以外の時間は喫煙ができたという事実は、現在では考えられません。当時、当センターも積極的に地下鉄会社に働きかけました。



地下鉄会社への要請
(1988)
1992年5月 「禁煙医師連盟」結成

1992年5月31日、日本禁煙推進医師歯科医師連盟(初代会長・五島雄一郎氏)が結成されました。

メンバーは日本全国の熱心な医師、保健・医療関係者が中心で、日本の禁煙・分煙運動の促進に大きな力を発揮しています。五島会長は2003年5月28日に他界され、現在は、大島明氏(大阪府立成人病センター調査部長)が会長を務められています。



禁煙医師連盟
(1992)
1998年4月 テレビCM「自主規制」で撤退

1998年4月1日、世界の動向の波に押され、一部タバコのCMが「自主規制」されました。

禁煙運動もテレビCM禁止を目標に、様々な取り組みを展開しました。また、世界会議・タバコか健康かアジア太平洋会議(APACT)の勧告、決議なども大いにこれをサポートしました。

2005年現在、日本ではタバコの個別銘柄のテレビCMはありませんが、マナー広告という名のJTのCMは続いています。また、テレビ番組での喫煙シーンはたびたび放送されています。表現の自由と絡み、問題は簡単ではありませんが、影響力の大きいテレビから喫煙シーンをなくす事は重要なテーマです。


1998年5月 「タバコ病訴訟」提訴

1998年5月15日、長年の喫煙が原因で肺がん・肺気腫・喉頭がんになってしまった患者7人が、JTと国(大蔵省、厚生省)を相手に訴訟を起こしました。

ところが、2002年11月、それまで真剣に訴訟指揮を行っていた非喫煙裁判長が突然、喫煙者の裁判長に交代となりました。その喫煙者の裁判長は「ニコチンの依存性はアルコ−ルより格段に弱い」としてJTの意見をそのまま受け入れ、原告の訴えを棄却しました。

そして、2005年6月、東京高裁の控訴審でも原告の訴えは全て否定されました。当裁判は現在、最高裁に上告申請中となっています。



訴訟の様子
(1998)
1998年 航空機は全面禁煙に

1998年、世界のほとんどの国で、国内線・国際線とも航空機は全面禁煙になりました。

ICAO(国際民間航空機関)は、カナダ・モントリオ−ルで開かれた1992年の総会で、全ての民間航空機フライトの禁煙化を決議しました。

当センターは、1988年頃から航空各社に「フライト全面禁煙化」を要請してきましたが、約10年後に要請が認められた形となりました。もちろん、当センターの要請以外にも、多くの方の働きかけがあったということは言うまでもありません。


2002年3月 「禁煙推進議員連盟」発足

2002年3月7日、衆参の超党派の議員64名が集い、「禁煙推進議員連盟」が発足しました。

初代会長に衆議院議長も務めたの綿貫民輔氏、事務局長には小宮山洋子氏などが名を連ねています。

禁煙議連の取り組みが、健康増進法の制定・タバコ規制枠組条約の署名、批准に大きな影響を与えたと考えられています。


2003年3月 甲子園球場禁煙

2003年3月9日、甲子園球場のスタンド席が禁煙となりました。

屋外球場については、グリ−ンスタジアム神戸が2000年から、次いで千葉マリン、神宮、横浜が続き、2002年に広島、そして最後に甲子園が2003年3月のオ−プン戦から禁煙となって、プロ野球のフランチャイズ球場の全てが禁煙となりました。

ところで、甲子園球場は高校野球の聖地でもありますが、高校球児の喫煙問題が後を絶ちません。「未成年だから」というのではなく、まず、成人が積極的にタバコと縁を切る努力が必要です。


2003年5月 「健康増進法」施行

2003年5月1日、健康増進法が施行されました。

この法律により、高速自動車道のサ−ビスエリア、パ−キングエリアが禁煙となって、マスコミが大きく報道しました。首都圏の大手私鉄も「構内全面禁煙」を打ち出し、これも大々的に紹介されました。

健康増進法第25条では、「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙を防止するために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」と定められています。

健康増進法は、罰則規定が無いため、強制力が乏しいという問題はあるものの、受動喫煙防止のための重要な法的根拠となっています。



『健康増進法』
(2003)
2003年11月 千代田区の路上禁煙条例

2003年11月1日、千代田区が「路上禁煙条例」を実施しました。

ぽい捨てした喫煙者から2000円という現実的な科料を徴収するということで実効を挙げました。

この千代田区の条例がモデルとなり、全国各地で路上禁煙条例が制定されています。



キャンペーン
(2003)
2004年7月 江戸川区の職場煙害訴訟、初の勝訴

東京都江戸川区の職員が職場の受動喫煙被害を訴えていた訴訟で、2004年7月12日、東京地裁は初めて健康被害を認め、江戸川区に5万円の賠償を命じました。

江戸川区は控訴せず、判決が確定しまし、これまでのタバコ関連裁判で、初の勝訴となりました。


2004年7月 「禁煙タクシー訴訟」提訴

長年のタクシ−内での喫煙で体調を壊した乗務員が原告代表となって2004年7月22日、運転者3名、利用者23名でタクシー全面禁煙化を求めて東京地裁に提訴しました。

日本のタクシ−総数は約26万台であるが、そのうち「禁煙タクシ−」はわずか5000台強程度で、狭い車内の煙害は野放しとなっています。

2005年の現在では、少しずつながら、禁煙タクシーを導入する法人タクシーが増えていますが、全面禁煙とはほど遠いと言わざるを得ません。



安井幸一氏
(2004)
2005年1月 大相撲「升席」禁煙に

2005年1月9日、大相撲初場所から、両国国技館の升席が全面禁煙となり、全て本場所での禁煙が実現しました。

相撲協会は長年にわたり、「升席での飲食・喫煙は伝統ある文化」と主張してきました。禁煙団体は約1年間、名古屋・大阪・福岡の各体育館を管理する教育委員会と消防庁に対し、受動喫煙被害を訴えつづけ、ようやく実現しました。


2005年2月 「タバコ規制枠組条約」発効

2004年6月、日本政府は「タバコ規制枠組条約(FCTC)」を批准しました。世界の40ヵ国以上が11月までに批准したことを受けて、2005年2月27日、FCTCが正式に発効されました。

締約国には、喫煙・受動喫煙の有害性、タバコ広告の禁止、警告表示の変更、タバコの増税などへの取り組みの義務が課せられます。また、わが国の、「タバコ産業の健全な発展」をうたう「タバコ事業法」との整合性が問われています。



FCTCを祝う人文字
(2005)



トップ | センター紹介 | 主な活動 | タバコ問題情報 | コラム | リンク | お問い合わせ

Copyright (C) 2005-2011 タバコ問題情報センター All Rights Reserved.